天才性は、持つものではなく発現するもの——閉ざされた可能性をめぐって
おおよそ世間は、天才を二通りに説明します。生まれつき並外れた何かを授かっていた、あるいは尋常でない努力の果てに花開いたのだ、と。どちらの説明も、天才性及び才能を「持っているか、いないか」という所有の問題として語っています。
では、多くの人は、その所有の側にいない凡人なのでしょうか。私は、そうは考えていません。
能力を、生まれつき与えられた固定の量だと見なすと、人は早々に、自分を勝者と敗者のどちらかに振り分けてしまいます。ですが、私たちの内側に眠る無意識の働きは、そのようなものさしで測りきれるものではありません。身長や手足の長さといった、身体の差異はあります。しかし、それは可能性の全体から見れば、わずかな誤差の範囲に収まるものなのです。能力とは、静止した持ち物ではなく、関係の中で立ち現れる出来事に近いのです。
才能もまた、生まれつき備わった所有物ではありません。それは、どのような関係の中に置かれ、どのような環境に触れたかによって、発現したり、閉ざされたりするものなのです。
だとすれば、凡人とは、才能が欠けた状態を指す言葉ではありません。まだ発現していないだけの可能性に、仮につけられた名前に過ぎないのです。あなたは凡人なのではなく、あなたの天才性が、まだ開かれていない——ただ、それだけのことなのです。
では、何がそれを閉ざしているのでしょうか。多くの場合、それは同調です。私たちは幼い頃から集団の中で過ごし、輪を乱さないこと、周囲と歩調を合わせることを、繰り返し求められてきました。「人と違っていい」という言葉は語られても、実際の社会では、違うことはしばしば「変わった人」として扱われます。
そうして、本来そこにあるはずの可能性は、少しずつ見えなくなっていきます。コーチングでは、この見えなくなった領域を、スコトーマ——心理的な盲点と呼びます。才能が失われたわけではありません。日陰に置かれた種のように、ただ芽吹く合図を待っているだけなのです。
ですから、無理に「自分は天才だ」と奮い立たせる必要もありません。ただ、自分の中にまだ発現していない領域がある、と認めてみる。閉ざされていたものは、開いてよいのだと、自分に許してみる。それだけで、見えなかった景色は、少しずつ輪郭を取り戻していきます。
この可能性に、年齢は関係ありません。何歳からでも、私たちはそれを開いていくことができます。
そして、これはあなた一人の話ではありません。誰もが、一人の例外もなく、まだ発現しきっていない可能性を抱えて生きています。自分のそれを認めることは、同時に、他者のその可能性を信じることでもあるのです。
