コラム

一匹の芋虫、縁起と起点のこと

蓮彩聖基

散歩の途中で、目の前に糸を引いて上から垂れてくる芋虫がいました。そして風にちょうどなびいたとき、私の腕のところにふわりとくっついてきました。私はその芋虫を潰したり殺したりせず、近くの草むら、自然のほうへ枝を使って返してあげたのです。歩道のままだと踏まれてしまうかもしれない。そんな意識で、ほんの少しだけ、踏まれにくそうな場所を選んだわけです。

ただ、ここで考えてみたいのです。芋虫にとってのその一メートル、二メートルというのは、いったいどれほどの距離なのでしょうか。私たち人間にとっての一メートルと、あの小さな芋虫にとっての一メートルとが、同じ重みであるはずがありません。

私たちが「宇宙は広い」と言うとき、月までの距離を数字としては語れます。けれど、その広さを体感として本当に感じられているかというと、ほとんど難しいのではないでしょうか。「五十メートル」と言われても、それを長いと感じるか短いと感じるかは、人によって相当ばらつくものです。距離というのは、数字上の事実と、個人個人の体感とが、必ずしも一致しないわけです。

そう考えると、私が芋虫を「ちょっと先」に置いてあげたつもりでも、芋虫にとってはおそらく、世界そのものが変わるくらいの出来事だったかもしれません。

私はあの芋虫に対して、いいことをしたのか、悪いことをしたのか、本当のところはわかりません。潰さずに自然へ返すというごく当たり前のことをしたつもりでいるのです。ですが、もしかしたら芋虫の家族と引き離してしまったかもしれませんし、それまでの環境とは全く違う場所に連れて行ってしまったことで、芋虫の縁起そのものが変わってしまった可能性もあるわけです。

別の場所の草むらで生き延びるかもしれないし、そこで踏まれてしまうかもしれない。さなぎになり、蝶になって羽ばたいていくかもしれないし、そうならないかもしれない。様々な可能性世界が、あの場面の先には広がっていたのです。

そして同時に、芋虫のほうも私の人生に影響を与えています。なぜかというと、私が今こうしてあの出来事を文章にしているからです。芋虫が私の肩についたという事実があり、私が芋虫を草むらに返したという事実があり、その経験が私のなかで言葉になっている。これはもう、一方が一方に働きかけたという話ではなくて、双方向的な相互作用なのです。私たちはこのような縁起の空間のなかで生きているわけです。

ここで私が言いたいのは、私たち一人ひとりが、この縁起の空間の起点になりうる、ということです。

芋虫は私についてきたのですが、私はそこから先、芋虫をどこへ連れていくかをいくらでも変えられたわけです。家に持ち帰ることもできましたし、安全に飼うこともできたかもしれない。もちろん、それが芋虫にとって本当に安全だったかはわかりません。さなぎから蝶になるときに、外の世界を知らないまま育つことが本当によかったのかどうか、私には到底判断できないのです。

ですから、何が良くて何が悪いのかは、本当のところ、誰にも言い切れないのです。

ある側面で見れば正しいし、別の側面で見れば間違っている、ということは言えるでしょう。それはあくまで部分的な側面なのであって、全体を把握できたうえでの判定ではないのです。私たちは、時空を超えた全情報にアクセスできるわけではありません。だからこそ、「より正しそう」という判断はできても、「絶対的に正しい」という判定はできない。そのことを、まず受け止めておきたいのです。

そう考えると、「正しいか間違っているか」「良いか悪いか」を厳密に詰めることに、それほど意味はないと言えるでしょう。むしろ大事なのは、その縁起の空間のなかで、自分が起点となれる、その自覚のほうではないでしょうか。

人々に対して、世の中に対して、この世界そのものに対して、よい影響を与えようとする起点に、私たちはいつでもなれるのです。もちろん、悪い方向に働きかけることだって構造としては可能です。ただ、ふつうはそうしないわけですから、ここでは良いほうに向かう起点について考えます。

この感覚は、自分の人生は自分で舵を取るしかない、という話にもつながってきます。誰かに舵を譲ってしまえば、その人が設計した縁起のなかへ流されていく。それは自分の人生を生きていることに、なかなかなりにくいわけです。だからこそ、自分が自分の船長であるという意識を持つ必要があるのです。

ただ、ここでも一つだけ気をつけたいことがあります。

「自分が起点になれる」ということは、「自分が偉い」とか「自分が世界を設計している」という話ではない、ということです。私たちが生きているこの世界そのものが、無数の関係性のネットワークなのです。どこか一点が絶対的中心ということもなければ、誰かが上で誰かが下ということもない。みなが平等で、みんな同じ縁起の網のなかにいるわけです。

ただ、そのなかでも、より影響力のある起点というものはあります。世の中への働きかけが大きい人がいて、結果的にこの情報場に対して、より大きな波紋を生んでいる。そのような違いはたしかにあるのです。けれど、それは「偉さ」ではなくて、ただの「働きかけの大きさであり強さ」と言えます。そこを取り違えなければ、自分が起点であるという自覚は、傲慢にはならないはずです。

芋虫を草むらに返したあの数秒の出来事は、見ようによっては、何気ない一瞬にすぎません。しかしそこには、相互作用と、可能性世界と、自分が起点になれるという感覚と、それでいて誰も偉くはないという、すべて畳み込まれていたように思うのです。

私たちの一日のなかには、おおよそこのような瞬間がいくつも紛れ込んでいるのでしょう。気づくか気づかないかは、こちら側次第なのです。

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