コラム

抽象度を上げるということ──利他の本当の意味

蓮彩聖基

私たちはなぜ、見たこともない人のために何かをしようと思うのでしょうか。家族や近しい友人を気にかけることは、ある意味で自然なことのように思えます。しかし、会ったこともない遠くの誰か、まだ生まれていない未来の世代、あるいは違う文化の中で暮らす人々のことまで考えるというのは、よく考えると不思議なことではないでしょうか。

苫米地理論では、利他性とは特別なことでも、無理をして自分を犠牲にする行為でもなく、抽象度が上がったときに自然と現れる構造と考えます。

私たちの認知には「抽象度」と呼ばれるパラメータが存在しています。抽象度が低い状態というのは、目の前のこと、自分の身近な範囲のことだけを「自分ごと」として感じている状態のことです。家族のこと、職場のこと、今日と明日のこと。そういったものに関心が向いている人は多いものです。これは決して悪いことではありません。むしろ生きていくためには必要な感覚です。

しかし、抽象度が上がっていくと、関心の対象範囲が広がっていきます。地域のこと、国のこと、人類全体のこと、さらには将来の世代のこと。物理的な距離や時間的な距離が遠い相手であっても、自分と関係のある存在として感じられるようになっていくわけです。

要するに「思いやりが届く範囲」が、抽象度の高さによって決まっているということなのです。ここで少し誤解されやすい点があります。利他というと、自分を犠牲にして他人のために何かをする、というイメージを持っている人もいます。

しかし、抽象度を上げて生まれる利他性は、自己犠牲ではないのです。むしろ、抽象度が高い状態で物事を見ると、自分と他者を切り離すこと自体が成り立たなくなってくる、というのが正確な表現です。自分の幸福と他者の幸福が、別々のものではなく、同じ地形の中で繋がっているように感じられてくるのです。

もちろん、抽象度を上げることには認知的なコストがかかります。目の前のことだけ考えていたほうが、ある意味では楽と言えます。

遠くの誰かのことを想像し、未来のことを考えるためには、エネルギーが必要になるのです。それでも私たちが抽象度を上げようとするのは、その先により広い安定した領域、より整合した世界が拡がっているからと言えます。

日々の暮らしの中で、私たちは無意識に抽象度を上げたり下げたりを繰り返しています。疲れているときには抽象度が下がり、視野が狭くなる。心に余裕があるときには、自然と他者のこと、社会のことに思いが及ぶ。そのような経験は、誰にでもあるはずです。

つまり利他性は、特別な訓練を経て獲得する高度なものというよりも、抽象度を一段上げたときに数学的にも進化的にも最適な解として現れる、ごく自然な構造なのです。

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