苫米地理論

戦争は「選べる世界」をどう狭めるのか——認知の偏りから平和を考える

蓮彩聖基

戦争を支える認知の危険は、考える力や選ぶ力が完全に失われることだけではありません。人が自分で情報を比較し、自分で決めているにもかかわらず、比較に入る世界そのものが一方向へ狭められていることです。

広島と長崎に原子爆弾が投下された歴史を考えるとき、最初に守るべきなのは、被害を抽象的な言葉の中で薄めないことです。失われた命があり、その後も長く影響を受けた人々がいて、記憶を伝えてきた人々がいます。理論は、その具体的な事実や責任を相対化するために用いるものではありません。

具体的な事実と責任を曖昧にしないまま、次に検討すべきなのは、破壊をもたらす選択が、なぜある時点で「現実的」「必要」「避けられない」と認識されるのかという問題です。同時に、対話、停戦、民間人の保護、異議を述べることが、なぜ非現実的なものとして見えなくなるのかも問わなければなりません。

この認知の問題を考えるために、本稿では、人が何を選んだかだけでなく、何が選択肢として見えていたかに注目します。選択する力が残っていても、選択肢として見える世界そのものは偏り得るからです。戦争と平和を分ける認知の問題は、選択の結果だけでなく、その選択がどのような情報と前提の中で行われたのかにあります。

戦争は、敵を固定化する前に見える世界を狭める

人は、世界に存在する情報のすべてへ同時に接することはできません。限られた言葉、映像、記録、証言、周囲の反応を通して、何が起きているかを理解します。そのため認知の偏りは、明白な虚偽を信じたときにだけ生じるものではありません。どの事実が前面に置かれ、どの関係が背景へ退き、どの未来が語られないかによっても、見える世界の範囲は変わります。

戦争をめぐる認知では、複数の主体が一つの「敵」という表象へ圧縮され得ます。国家、政府、軍、制度、意思決定者、市民、子どもは同じ存在ではありません。ところが、それらの区別が消え、一つの敵としての像だけが強い現実感を持つと、その像に当てはまらない具体的な人間や関係は認識しにくくなります。

ここで起きているのは、敵に関する答えが一つ与えられることだけではありません。「誰の苦痛を事実として数えるのか」「誰の発言を検討に値するものとして扱うのか」「攻撃以外にどのような未来があり得るのか」という問いそのものが、認知の外側へ押し出されます。偏りは、判断の結論より先に、判断に使われる世界を狭めるのです。

この状態でも、人は何も考えなくなるとは限りません。与えられた範囲の中で比較し、理由を挙げ、より良いと思う手段を選べます。だからこそ問題は見えにくくなります。本人に選択の感覚があることと、その人が選択肢の範囲まで自律的に形成したことは、同じではありません。

選択が残っていても、選択肢の世界は偏り得る

この違いを扱うのが、定理21である苫米地包摂半順序臨場感方向性定理です。定理名は難しいですが、中心にある考え方は明確です。人が接している情報は世界のすべてではありません。限られた情報の中で、特定の言葉やイメージだけが強く働けば、判断はその方向へ引き寄せられやすくなります。

論文では、象徴が認知へ作用する強さを「実効臨場感利得」と呼びます。その偏りが十分に強く、認知の動きが限られた範囲の中に保たれるなどの条件がそろうと、特定の見方へ戻りやすい局所的な落ち着き先ができます。これは、その見方が世界全体で正しいという意味ではありません。限られた情報の範囲内で、一つの方向が安定するということです。

この定理の重要な点は、その状態でも選択が残り得ることです。同じ状況の中に複数のゴールが残り、それぞれが異なる行動へ結び付くなら、人はそれらを比較して自分で選べます。それでも、提示された案がすべて同じ偏った方向を向いているなら、選択できたことだけで、選択肢の世界まで自律的だったとはいえません。

例えば、状況が「攻撃するか、屈服するか」という二択だけで示されていれば、主体は二つを真剣に比較し、自分で攻撃を選ぶことができます。しかし、対話、退避、停戦、民間人の保護などが、初めから検討可能な未来として示されていないなら、問題は選ぶ力の有無だけでは終わりません。何を選べるものとして示されていたのかまで、分けて考える必要があります。

扇動は、答えより先に問いを狭める

この構造を戦争の問題へ応用して読むと、扇動の強さは、特定の答えを命令することだけにはありません。誰を一つの集団として括るのか、誰の言葉を信用に値しないものとするのか、どの未来を現実的と呼ぶのかという、問いの前提を方向づけるところにあります。

人々が命令に従っているだけなら、外部からの強制は比較的見えやすいでしょう。しかし、狭められた世界の中で各人が議論し、比較し、納得し、選んでいる場合、偏りは本人の主体感と両立します。認知の地形が先に方向づけられれば、思考する力そのものが、その地形の内部で最適な答えを探すために使われることもあります。

だから認知の主権を守るには、「あなたは自分で選びましたか」と尋ねるだけでは足りません。どの声が最初から不在だったのか、どの関係が一つの敵としての像へまとめられたのか、どの未来が考えるに値しないものとして退けられたのかまで問う必要があります。答えを選ぶ自由だけでなく、問いと選択肢が形成される過程へ注意を向ける必要があるのです。

もっとも、この定理だけから、広島と長崎への原爆投下を含む個別の戦争について、その歴史的原因、意思決定者の意図、責任の所在を確定することはできません。偏りが意図的に作られたのか、複数の要因から生じたのかも、定理だけでは判定できません。また、条件を満たさない人まで必ず同じ方向へ収束するとはいえません。

偏った表象の近くに安定した局所的な谷ができることは、その方向が真実であること、善であること、世界全体を最も広く包摂することの証明でもありません。安定していることと正しいことを分ける。この限定を外さないからこそ、定理を扇動の正当化ではなく、その危険を見抜くために用いることができます。

平和は、責任を消さずに選べる世界を開く

選択肢があらかじめ狭められているなら、「平和が正しい」と結論だけを示しても、判断の前提は変わりません。誰が「敵」という一語にまとめられ、誰の声が判断材料から外され、対話や停戦などの未来がなぜ非現実的なものとして退けられたのかを、一つずつ見直す必要があります。平和へ向かうとは、それらを再び検討可能な選択肢として扱える状態をつくることです。

これは、すべての立場を同じ重さで扱うことでも、事実と虚偽の区別をなくすことでもありません。被害と加害を曖昧にし、責任を消すことが包摂ではありません。政府と市民、命令した者と巻き込まれた者、確認された事実と未確認の主張を分けることは、敵という一語への圧縮を解き、責任をより具体的に捉えるために必要です。

同時に、ある立場の責任を確認することと、その立場に結び付けられたすべての人間を固定した敵として扱うことも同じではありません。具体的な行為と責任を明らかにしながら、個人、集団、制度、未来の関係を一つの表象へ閉じ込めないことが重要です。責任を消さないことと、敵を固定化しないことは両立します。

平和に向けた認知の条件として、本稿が提案するのは、異論をただ追加することではありません。誰が表象され、誰が消えているのかを確かめ、同じ出来事を異なる位置から記録した声へ接続し、非暴力の選択肢を初めから非現実的なものとして排除しないことです。そして、ある枠組みに異議を述べても、人間としての所属や尊厳まで失わずに済む関係をつくることです。

この提案も、定理から自動的に導かれる唯一の平和構築手順ではありません。具体的な安全保障、制度、外交、救済、補償、教育には、それぞれ別の事実確認と専門的判断が必要です。定理が与えるのは、平和政策そのものではなく、選択があるという外見だけで認知の自律性を判定しないための構造的な補助線です。他者が認知変容へ関与するときの倫理条件は、認知変容の倫理——ゴール設定主体と四つの基準で詳しく論じています。

広島と長崎の記憶を、平和の起点にする

広島と長崎を記憶することは、過去を閉じた出来事として保存することではありません。何が起きたのかを具体的に残し、その被害を抽象化で薄めず、同じ破壊を現実的な選択肢として再び成立させないために、現在の認知と制度を問い続けることです。

記憶が存在するだけで、平和が自動的に続くわけではありません。記憶が新しい敵としての像を固定化するためだけに使われれば、見える世界を狭める構造は残ります。反対に、責任を消さないという理由で、未来の関係まで永遠に一つへ固定化する必要もありません。事実を保持しながら、次に選べる世界を広げることができます。

戦争は、人から選択を完全に奪わなくても続き得ます。限られた表象の内部で、本人が自分の意思として選び続けることができるからです。だから平和は、選択の回数を増やすだけでは足りません。問いを開き、声を戻し、関係を分け、暴力以外の未来が現実的な選択肢として見える認知世界を守る必要があります。

本稿が広島と長崎の記憶から引き受けるのは、過去の敵を固定化し続けることではなく、現在の私たちがどのような世界の中から次の選択を行うのかという問いです。選んでいるという感覚の奥にある、選べる世界そのものを問い直すこと。そこから、平和は一時的な抑止ではなく、認知の自律性を支える持続的な営みとして始まります。

参照資料

  1. 苫米地英人『苫米地四法印定理――ミニマル13定理版』日本語・暫定公開版、2026年7月26日、本文「10. 定理21――苫米地包摂半順序臨場感方向性定理」。

本稿の戦争と平和への展開は、定理21を教育・平和利用の範囲で応用した論考です。原典が広島と長崎への原爆投下を含む個別の歴史事象の原因、責任または解決策を直接証明したという意味ではありません。

ABOUT ME
蓮彩聖基(はすたみ こうき)
蓮彩聖基(はすたみ こうき)
パーソナルコーチ
1997年生まれ。苫米地式コーチング認定コーチ(2016年認定)、苫米地テオレム認定シニアエバンジェリスト(Senior-TTCE、2026年認定)。苫米地理論の解説と、苫米地式コーチングに基づく一対一のパーソナルコーチングを行っています。
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