苫米地理論

平和というゴールを現在のTCZの外側に置く——可能性を現在で閉じない

蓮彩聖基

平和は、一人の意思や努力だけで達成できる個人的な成果ではありません。異なる立場や利害を持つ人々が、互いの生命、尊厳、自己選択を破壊せず、一つの世界を共有するための社会的なゴールです。個々の主体にできるのは、平和そのものを単独で実現することではなく、その共有未来を判断基準として、自分の行為と関係のつくり方を選び直すことです。

しかし、その共有世界を考える私たち自身は、現在の力関係、敵味方の区分、当然とされている価値基準の内側から判断しています。それらを動かせない前提として置けば、考えられるのは、現在の対立構造の中で選べる対応だけです。平和というゴールを現在のTCZの外側に置くことは、誰か一人が平和を実現することとは別です。ここで意味するのは、現在の対立構造だけで未来を閉じず、その構造自体が変わった共有世界を先に選び、その未来を基準に現在の判断を組み直すことです。これは現実の制約を無視することではなく、現在の認知と評価の枠組みを未来の限界にしないということです。

この区別は、人間の可能性を考える場合にも重要です。ここでいう可能性は、何でも必ず実現できるという意味ではありません。現在のTCZの内部で見えている選択肢だけを可能性の全体とせず、共有世界へ向けて異なる関係や行為を見いだす余地を閉じない、という意味です。

現在のTCZは、未来の上限ではない

TCZは、ある時点から到達できる状態のうち、認知上の評価が許容範囲に収まる状態を、時間にわたって捉えた安定領域です。単に「居心地のよい場所」を指す日常語ではなく、現在の到達可能性と評価基準を一つの組として扱う概念です。本稿では、平和というゴールを考える各主体について、現在を起点にしたこの領域を「現在のTCZ」と呼びます。

「今の自分には無理だ」という判断は、現在のTCZの内部から行われます。その判断は、現在の能力、環境、時間、方法を把握するために必要です。しかし、それだけで現在のTCZの外側にある未来まで不可能だと決めることはできません。現在の物差しがまだ捉えていない未来を、同じ物差しだけで測っているからです。

そこで、現在のTCZの外側に置くゴールは、他者から与えられた目的ではなく、各主体が自分の評価に照らして選ぶものでなければならないと考えます。外側にありさえすればよいのではありません。他者から押し付けられた目的や、自分の価値判断と結び付かない目標は、現在の認知と評価の枠組みから離れて見えても、自ら選んだゴールにはなりません。この基準は、平和というゴールを考えるために置くものです。

助言を受け取ることと、未来の選択権を他者へ渡すことは別です。ゴールを置く主体については、自らを拠り所にする——助言とゴール設定主体で詳しく論じています。

現在のTCZの外側と抽象度は、別の軸である

現在のTCZの外側にあることと、抽象度が高いことは同じではありません。現在のTCZの外側かどうかは、ゴールと現在のTCZとの位置関係です。抽象度は、一つの概念が別の概念をどこまで包摂するかという順序に関わります。この包摂を平和の問題へ用いる場合、判断に含める人や関係の範囲として考えます。

例えば、自分だけが勝つ未来が現在の自分にとって非現実的であっても、その未来が広い範囲を包んでいるとは限りません。反対に、「世界の平和」という大きな言葉を掲げても、実際には自分と同じ意見だけを守ろうとしているなら、言葉ほど抽象度は高くありません。

平和というゴールを現在のTCZの外側に置くときには、その位置関係だけでなく、誰の未来まで評価の中に含めているかを見なければなりません。自分にとって新しい未来であることは、他者にとっても望ましい未来であることを保証しないからです。

抽象度を上げることは、違いを消すことではない

ここでいう「抽象度を上げる」は、話を曖昧にしたり、具体的な違いを見えなくしたりすることではありません。異なる立場を残したまま、それらを含む、より広い共有世界を考えることです。

たとえば、二つの集団が対立している場面で、問いが「どちらが勝つか」に限られていれば、相手の未来は自分の勝敗を決める材料としてしか扱われません。評価の範囲を広げると、問いは変わります。両者の違いが残ったまま、生命、尊厳、自己選択を守れる関係はあるか。責任を曖昧にせず、それでも相手を一つの敵として固定しない道はあるか。抽象度を上げる意義は、答えを簡単にすることではなく、答えに含めるべき世界を広げることにあります。

この意味で抽象度を上げることで広がるのは、判断に含める人や関係の範囲です。ただし、すべての立場や行為を同じように扱うわけではありません。より多くの主体を判断に含めることと、被害と加害の区別や責任の差を消すことは別です。暴力を受けた側と加えた側、責任を負う者とそうでない者まで一括りにすれば、違いを包んだのではなく、判断に必要な差を消したことになります。必要なのは、誰が何をしたかを区別したまま、勝者だけが残る未来ではなく、より多くの主体がともに生きられる関係を考えることです。

苫米地自由意思定理が扱う「選ぶ余地」

平和を、より多くの人を含む共有世界として考えるとき、注意すべきことがあります。抽象度を上げることを、異なる意見や行動を一つに揃えることと取り違えないことです。広い世界を掲げながら、その世界に含まれる人々へ一つの選択だけを求めれば、違いを包んだのではなく、消したことになります。

この点で重要になるのが、定理19「苫米地自由意思定理」です。定理名からは、哲学上の「人間は本当に自由なのか」という問いに答えるもののように見えますが、ここで扱う問いはもっと限定されています。一人の主体とその履歴を固定し、同じ状況に置かれたとき、ゴールの違いをどこまで行為の違いとして表せるのか。その余地を、「自由意思容量」と呼びます。選択肢の数や、行為の予測しにくさを測るのではなく、ゴールの違いが行為の違いとして表れているかを見る考え方です。

たとえば、同じ対立状況の中に、身の安全を守る、対話の回路を残す、被害を記録するという異なるゴールがあるとします。どのゴールを選んでも同じ行為しか取れないなら、ゴールの違いは行為に表れません。安全を守るというゴールから退避や保護を選び、対話を残すというゴールから仲介を求め、被害を記録するというゴールから証言を保存できるなら、ゴールの違いは行為の違いとして残ります。これは、どの行為が正しいかを決める例ではなく、異なるゴールを異なる行為として表せる関係を示すための架空の例です。

行為が偶然に変われば自由になる、ということでもありません。ゴールと無関係に行為がばらばらに変わるだけなら、その行為からゴールの違いを読み取ることはできません。反対に、一定の規則に従う行為でも、ゴールが違えば別の行為へ結び付くなら、ゴールの違いは失われずに残ります。この定理が重視するのは、予測できないことではなく、ゴールと行為の対応です。

抽象度を上げても、選ぶ余地を狭めない条件

ただし、この定理の結論には条件があります。比較するそれぞれの抽象度に、検討できる問題と行為の選び方の組が、少なくとも一つは必要です。また、現在の状況を踏まえた後にも残るゴールの不確定性と、行為の違いとして表せる容量の上限は、どちらも有限でなければなりません。実際に正の容量があるには、同じ状況を踏まえてもゴールの違いが残り、その違いが少なくとも何らかの行為の違いに反映される問題と選び方が必要です。

さらに、低い抽象度から高い抽象度へ移るときには、低い側で区別されていた状況の捉え方や行為の選び方を、高い側で一つにまとめてはなりません。現在の状況・ゴール・行為出力の結び付き方と、その問題や行為の選び方に与えられた評価値を変えずに、別々のものは別々のまま高い側へ引き継ぐ必要があります。この条件が満たされるなら、高い抽象度へ移っても自由意思容量は減少しません。

ここでいう「減少しない」は、必ず増えるという意味ではありません。抽象度に比例して自由が増えるのでも、人間の可能性が無限になるのでもありません。また、この定理は、形而上学的な自由意志が存在することや、望んだ結果が必ず実現することを証明しません。

本稿では、この構造を、異なる主体に一つの選択を強いるのではなく、それぞれの選ぶ余地を残した平和を考える手がかりとして用います。ただし、定理19が直接扱うのは、一人の主体におけるゴールと行為の対応です。定理が直接示すのは、その主体について、先ほどの条件を満たして高い抽象度へ移せるなら、ゴールの違いを行為の違いとして表す余地は狭まらないということです。複数の主体が共存できることや、平和の正しさを証明する定理ではありません。こうして範囲を区切って用いることで、抽象度を上げることを異論や選ぶ余地の消去と取り違えずに済みます。

可能性を信じるとは、現在の判断で閉じないことである

「人間には無限の可能性がある」という言葉を、文字どおり無限の能力があるという定理の結論にすることはできません。人には時間、身体、環境、資源の制約があり、望む結果が必ず実現するわけでもありません。

それでも、誰の可能性も、現在の自己判断や周囲の評価だけで閉じるべきではないと考えます。現在できないこと、方法がまだ見えないこと、結果を保証できないことは、それぞれ現実の条件です。しかし、それらは「未来の上限がすでに確定した」という一つの結論ではありません。

可能性は、個人の内側に貯蔵された能力の量だけで決まるものではありません。どのようなゴールを置き、何を問題として捉え、どのような方法を見いだし、それをどの行為へ結び付けるかという関係の中に現れます。現在の自己評価はその関係の一部であって、全体ではありません。

平和というゴールは、他者の可能性まで含む

本稿は、他者の生命、尊厳、自己選択を守ることを、平和を考える際の前提に置きます。この前提は、この定理から導かれるものではありません。定理が与えるのは、抽象度を上げるときに、もとの選択構造と評価値を勝手に消さないための条件です。

この構造は、平和を考える一つの着想になります。ただし、この定理自体が、他者の可能性を評価の範囲へ含めるよう命じるわけではありません。この前提に基づき、自分とは異なるゴールを持つ人が、その違いを保ったまま生きられる可能性まで評価に含めます。平和の名の下に異論を消し、全員の選択を一つに固定するなら、言葉は平和でも、他者の可能性は閉じられています。

ここでいう平和は、対立が存在しない状態でも、全員の意見が一致する状態でもありません。異なる主体が違いを保ったまま、互いの生命、尊厳、自己選択を破壊せず、一つの世界を共有できることです。害を受け入れたり、責任の区別を曖昧にしたりすることも含みません。これは定理の結論ではなく、ここで採る平和の意味です。

平和を、目の前の選択に働く未来として持つ

現在のTCZの外側に平和というゴールを置いても、それが抽象的な標語のままでは、現在の判断は変わりません。言葉や物語、芸術、音楽などの象徴的な表現を、まだ目に見えない未来へ認知を向けるきっかけとして捉えます。これらは、平和という共有未来を感じ、語り、受け渡せる形にするための実践になり得ます。

もちろん、未来を強く思い描くだけで、平和が自動的に実現するわけではありません。未来を思い描くことと、社会の中で実際に生じる変化は同じではないからです。象徴的な表現は、見えない未来を判断基準として持つための入口にはなりますが、その基準を具体的な行為へどうつなぐかは、それぞれの主体が決めなければなりません。

平和が現在の選択に働いているかどうかは、壮大な言葉より、判断の変化に表れます。対立する相手を一つの敵として片づけず、具体的な行為と責任を見分けること。自分の正しさを示すために、他者の生命や尊厳を評価の外へ追い出さないこと。自分の発言や関係の作り方が、選んだ未来と整合しているかを確かめること。こうした判断は平和の実現を保証しませんが、ゴールを標語のままにせず、行為の基準へ変えていきます。

苫米地自由意思定理から、社会的・倫理的な結論がそのまま導かれるわけではありません。本稿では、定理が示す条件を手がかりに、現在の判断だけで自分や他者の未来を閉じないという考え方を、平和の問題へつないでいます。

平和というゴールを現在のTCZの外側に置くとき、現在の認知は未来の上限ではなくなります。人間の可能性を信じるとは、何でも必ずできると言うことではありません。現在の自分が知っている選択肢だけに未来を代表させず、自分の未来も他者の未来も、現在の判断だけで切り捨てないことです。平和という共有未来を判断基準にして、それぞれの主体が自分の行為と関係のつくり方を選び直す、ということです。

参照資料

  1. 苫米地英人『苫米地四法印定理――ミニマル13定理版』日本語・暫定公開版、2026年7月26日、本文「3. 共通定義と証明装置」および定理19〜22(pp.10–15)。

ABOUT ME
蓮彩聖基(はすたみ こうき)
蓮彩聖基(はすたみ こうき)
パーソナルコーチ
1997年生まれ。苫米地式コーチング認定コーチ(2016年認定)、苫米地テオレム認定シニアエバンジェリスト(Senior-TTCE、2026年認定)。苫米地理論の解説と、苫米地式コーチングに基づく一対一のパーソナルコーチングを行っています。
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